09/01/2010

感覚を研ぎ澄ます

アロマセラピーは、香りで五感のひとつ嗅覚を刺激する分かりやすい方法。
単に嗅ぐだけでなく、その人に合った精油を選んだり、適した使い方を駆使できるアロマセラピストは、単に「気持ちよかったー」という言葉だけでなく、その人がそのあとの仕事や生活の中で、何かの変化に気づいたり、それが糧になったという様をみるのが、また楽しいし、嬉しい。
同じことが食の分野でもある。あるシェフが、良く来られるお客様のあるパフォーマンスを見る機会があったが、前日に自分のレストランで召し上がったものが、確かにお客様の中で生きているのを感じた、と言っていた。

以前癒しのライブでお客様のために香りの演出を、とシンガーから依頼されてブレンドアロマを焚いたが、シンガーその人が、いつもより声が良く出ていいライブになった、と言っていたのを思い出した。

こうした感覚を高め、研ぎ澄ますことを手伝うことができる自分たちの仕事って、やりがいがあるいいものだよね。とは、そのシェフの弁。 

それはほんとにそのとおりと思うし、分野を違えても共通の感覚がある、この同士的な感じって、なんかいいな、と思った。

07/06/2010

バッチフラワーとタオの「バランス」を聞く。加島祥造先生講演会

伊那谷にお住まいのタオイスト、加島祥造先生に、東京までお出ましいただいて、お話を聞く機会を得ました。本来お願いできないはずのことが可能になって、その場で同じ空間を共有できたことに本当に感謝しています。最初に、「耳が聞えなくなってきている。目をつぶって自分の中を見ることはできるが、耳は聞えないと自分の声も聞えない。」とおっしゃいました。年をとると、からだの様々な変化は防ぎようもないが、耳のことより、「目をつぶっても自分の内面を見ることはできる」とは、すごい言葉だ、と思いました。加島先生は神田の商家に生まれ、私の亡くなった父と年もお近いうえにこうしたプロフィールも重なり、さらに親近感を持ってお話を伺うことができました。父ももし存命でも、からだのどこかにうまく動いてくれないところがでてきたら、苛立ちを感じているでしょうか?あるいは加島先生のように、その状態をも楽しむように暮らしていたでしょうか?

さて、今回のテーマはバランス。バランス、とは日本語では「釣り合い」、中国では中庸、仏教では中道、と加島先生はおっしゃる。この主題は、非常にバッチフラワーレメディの考え方と重なるところが多く、驚きもし、またそれだけにさらに興味深く聞くことができました。人間は生まれ落ちて、自然の水と空気と光と栄養という地球の秩序(これを加島さんは”nature”とおっしゃいました)を一身に受けて育ち、本来は喜びを自然から汲み取っている。しかし、これを妨げるのが人生で、それはすべて恐怖から来ている。

まさにバッチ博士がレメディを作った基本にある考えと同じです。また、善悪、美醜、高低を分けることや、ヘーゲルの正反合という弁証法的な概念などの近代的な考え方、ものの見方とは違い、元は同じところから出ているからこそ、「バランス」「つりあい」「中庸」「中道」を求めてくのだ、とする考え方。これこそ、自分の今感じている感情の善悪を問うのではなく、つらい感情のその本には居心地のいい感情が裏腹にあると考え、感情のバランスを求めていく、バッチフラワーが導く方向に近いと思いました。

バッチフラワーは、他の概念で説明すべきものではない、とは心得ているつもりですが、こと老子のタオ、あるいは加島先生のタオは、その言葉を借りると、バッチフラワーレメディの基本性質の説明が可能になるようにも思います。

人の状態を見て批判することだけでなく、自分のつらい感情も責めすぎない、どんな状態もあるがままに受け入れることから、バランスという感覚が始まるし、自分がしなやかに癒されるのでしょう。本当に意味ある時間でした。

05/21/2010

老後を恐れない

会社のほうか、こっちか、どちらに書こうか迷ったが、個人的感想なので、こちらに書いておく。

16日の日曜に、虎ノ門の発明会館ホールで、「認知症の真実」連続講座の第1回を行った。私はプロジェクトスタッフで、司会という役回りだったので、お迎えする側であったのだが、お越しいただいた皆さんも、スタッフも、一様に満足感を持って終えることができたようだ。

1時から4時半と長い時間を、加藤伸司先生一人に頼って展開。加藤伸司先生をご存知ですか?認知症介護の予防と研究分野では、もう15年携わり中心的役割を担っていらっしゃる。長谷川式スケール(認知症診断で、今どこでも行われているテスト)の作成もされた方。表立って出てこられる方ではないので、ある意味「知名度」では集客できないはずだが、130人もの参加があった。
で、この講座、なにがよかったって、先生のお人柄が滲み出た優しい語りかけ、事例豊富でユーモア交えた話術がすばらしく、会場全体があたたかな場になった点が第一だと思う。

そして、私自身の感想なのだが、とても広い範囲のお話を長時間聴いたのだが、決して情報満載でいっぱいいっぱいにならずに聴くことができる、不思議な講座だったということを今強く思い起こす。
つまり、ここで聴いた認知症にまつわる細かな知識や方法は恐らくまた必要になれば思い出したり、調べたりできるけど、本当の意味で認知症を理解するために必要な「芯の部分」を教わったから、ではないかと思うのだ。

それはなにかというと、加齢、老化によって、身体のさまざまな機能は変化する(あえて劣化と書かない)。ともすると、それが老いに対する恐れとなり、あるいは老人に対する「蔑み」「忌避的感情」になったりもしている。しかし寿命の延伸がひとにもたらしたもののひとつがこの認知症であり(データで説明されている)、裏を返せば加齢があるから認知症がある、という事実には、老化をどう捉えるか、が認知症を恐れない、唯一のカギなのだ、ということだ。
加藤先生のお話から、今、人が加齢と共に失うのは表面的に見える「記憶」ではなく、もしかして、その周囲のひととの関係性なのではないかと思った。それも看護介護する側から交流が遮断されるという状態。本来この時期に新たに得られるのは、機能の低下と引き換えに、豊かな感情であったり、過去の大事な思い出のかけらだったりする。だからこそ、記憶を失った、失いつつある患者さん、その人そのものの尊厳をいかに尊重していけるか、が大事になる、と先生もおっしゃっていた。
認知症の方が、どう思い、何を感じているか、それに対して看護介護する立場の私たちは何を見ているのか、これは多くの場合、ずれていることから悲劇が始まる。イギリスの認知症患者の老婦人が書き残した日記の朗読DVDが流されたが、男性も含め涙をぬぐう方がたくさんいた。看護師さんに見過ごされている自分の心の奥底の気持ちを書き綴ったもの。実際の介護現場で、どのような介護手法がよいのか、というマニュアル的な教育ではなく、こうした実例の体感を理解してもらうことが、本当は重要なのだろう。(加藤先生がいらっしゃる「認知症介護研究・研修センター」ではこうしたものも含めたリーダー教育をされている。)

そして、打合せのときに、実は一番つらいのは、病院で認知症であると告知を受けたその日、その瞬間から、次の診察日までの辛く切ない気持ちを、患者さんとご家族どちらもが持つけれど、そこに対して手が打たれていない、という事実。認知症の軽度の段階はまだ日常生活ができるから、相当にネットや書籍で情報を探るだろうが、「治らない」「悪くなるだけ」という事実は、果てしもないショックのはずだ。そのショックの緩和のためには、実はバッチフラワーレメディがとても有効だろう、と考えるのだが、具体的な方法論はこれから考えなければならない。なのでこれは忘れないためにここに書いておく。

いずれにしても、本当に実のある講座だった。DVD収録をされたので、ホリスティック医学協会の全国の支部での上映勉強会も検討され始めたと聞く。輪が広がるとよいな、と切に思う。

04/27/2010

不得意科目~右脳系

Image410_3 ※京香画伯の作品(インドっぽい音楽が流れる中、この音に感じたイメージを描いてください、と言われました)

右脳の活性化が認知症にいい、ということで、講座準備の体験で、絵を描いてきた。
私の美術嫌いといったら、実は運動嫌い以上かもしれない。美術嫌いって、見るのは好きだけど、やるほうね。
なんで嫌いかって、下手だから。親もそっち方面はだめだったらしく、成績が悪くても、全然何も言われなかった。むしろ、当然とさえ思っていたフシがある。

でもなぜ、だめかというと、恐らくもともと、何かを注意深く見たりすることがないからに違いない、と最近思うようになった。つまり、ヒトやモノを見ても、外見をつぶさには頭に入れていない、ということ。興味がない、というか。だからダンスとかも、まずマネから入るのだろうけど、マネできないからうまくならない。なにしろ見てないのだから。絵もそうで、なんというかものが立体に見えてないから、描ける訳がない。という理屈である。ちょっとよく言えば、もののカタチより、その意味を考えるほうが好き、っていうのもある。

ただ、昨日気がついたことがある。学校の美術教育は、あまりにハードルが高すぎるのだ。臨床美術の先生がいうには、抽象画は、そのひとそれぞれの表象なのだから、誰でもうまい、きれい、すばらしい、と言えるので、ピカソもあなたも変わりなく描けますよ。でも石膏像を描かせたら、ピカソはほんとにすばらしい、と。
そう、ここだ。なんで高校で、そんな差が出るものを競わせて(競わせてないといったって、成績つけるでしょ?)、描けない子にダメージを与えるのだろう。だって、パステルでぐちゃぐちゃにしても、きれいな色がでたり、思いもよらぬ模様が見えて来ると、とっても楽しくて、これなら一生画用紙とつきあっていたかもしれない。でも石膏像を描けば、才能のなさは一目瞭然。それがアート、と思えば、私はアートが苦手、という意識はすぐに作ることができる。プロ目指すのでないのだから、「自由に自分を表現すること」の楽しさをいかに教えるか、これが一番重視されるべきだろう。これからお子さんを育てるかたたちにも、こうしたことはしっかり伝えたい、と思った。

昨日は臨床美術士養成講座のスクール説明会なので、当然私たち以外は、美大出身者とか、美術好きばかり。でもおもしろいなと思ったのは、その人たちは、昔から好きだったはもちろんだが、「それしかほめられなかった」と言っていたひとも。

ほめられればうれしいし、その道を選ぶ。道を選べなくても、いつかまた戻ることだってできる。「それしか」といってもうらやましいことだ。ほめられず、けなされた経験は、二度とその道にもどしてくれない。それしかほめられなくても、ほめられる体験、それをうれしいと思う感情こそ、右脳を動かすんだな、と思った。

果たして、私は右脳系の科目はだめだと思いつつ、はて、数学・理科も相当だめだった・・・。ということは、脳全部だめ??!!

認知症を恐れない老後のためにも、ピカソは目指さないまでも、画用紙とパステル買ってきて絵を描こう。どんどん動かなくなる左脳は、もとからだめなんだから、もはやあきらめることにしようか、と本気で思い始めている。

04/18/2010

固有名詞がでない、しようとしたことを忘れる~私も認知症予備軍?!

加入している団体、日本ホリスティック医学協会で、今年1年、脳の健康をテーマに連続講座を開催することになった。会社ページは告知だけだけど、ちょっとした裏話、というか、私の気持ちを書いておく。

このプロジェクトのメンバーとして手伝いたいと思い、いろいろ本を読み出して驚いた。というか、本の内容ではなく、いかに自分がいわゆる物忘れ、ある意味、ボケ始めているか、ということに、である。大体、誰かの名前を言おうとすると、顔やプロフィールは思い出すが、「その」名前が出てこない。芸人だと、トリオの3人の名前は出るのに、グループ名が出ない、とか。あるいは、用事があって1階から2階に上がると、なぜ2階に来たのか、思い出せない。ひどいときは1階に戻っても、わからなかったりする。内臓が丈夫な私としては、晩年、自分の機能のどこが疲弊し老化するかといえば、間違いなく、脳、の気がする。そんなことはない、と人は言うけど、人間なんて、どこかが悪くなってくから死ぬのであって、どこも悪くならないなんて、不老不死ではあるまいし、と考えると、ますます脳の問題は私の心配事になった。しっかりもの、と思われている母親も、あれ?なんてところを見せる今日この頃、私もいつかは、の思いもあり。

ということで、翻ればいろいろ現実味を帯びていることもあり、それを検証するかのようにたくさんの本を読んだ。でもそうすると、得られるものは不安ばかり。特に、重症の脳血管障害でない限り、能の機能の低下は徐々に徐々に訪れるものであり、悪くなることをゆっくりにはできるけれど、いずれはほとんどわからなくなる。そして悪くなることを自覚しながら悪くなっていくのであるということが、とにかく恐い、と思った。
ここまで学んできたことでいえば、病気の原因や予防法、治療法などを知ることで、いかに落ち着いて病気に対していけるかが最大の学びだと思うのだが、こと脳の問題でいえば、そうもいえなさそうだ、というのが、プロジェクトの始まりの私の気持ちだった。

しかし、プロジェクトメンバーにはいろいろな人がいて、実際に介護真っ最中の人や、仕事として関わっている人など、さまざまで、それだけでも多くの知恵をいただいた。特に、この連続講座で目指すべきは、脳の機能の低下や老化を、忌み嫌ったり、ましてや馬鹿にしたりするものではなく、いかにご本人や、家族など周囲のひとといった、この病に関わる人達の尊厳を守るのか、という視点。「ボケる」ということばは、決してほめる言葉でないけど、だれにでも来るものだと思えば、その状態を笑ったり揶揄したり、眉を潜めるものにはならないはずだ。

anti-agingという言葉は嫌いだけど、well-aging,successful-agingという言葉は好き。agingは、熟成するというような、ワインなどでは、必要なことで、ほめ言葉でもあったりする、とはアメリカのアンドリュー・ワイル博士が書いていた。このような豊かなaging,豊かに年を重ねるには、未来を恐れない知恵を持つ必要がある、と思う。老いを、痴呆を(とあえて書くが)、忌み嫌うところに、魂の平安はなく、魂の平安なきところに癒しは訪れない、と思う。来るべき癒された老後の日々ためには、学べるうちに、真実を知り、それを恐れない知恵を得ることだ。

5月16日の日曜に、第1回講座が行われる。講師の加藤先生とは、先日打ち合わせをして、他にない、ホリスティック医学協会ならではの講座内容をしていただけることになった。臨床心理士として、また大学の教授として、認知症に苦しむ人達を数多く知り、決してその病いだけを見るのではなく、その人達の生活と生命を見ている、暖かな方。今講座の申込みも少しずつ増えてきているようだが、これからもっともっと多くの人に来てもらうようにするのが次の私の仕事だ。行政主導でもこのあたりは重要テーマなので、無料講座もたくさん開かれている。でも、この講座は、有料(会員3000円)でも、他にない、いろいろな気づきを得ていただけるはず。これを読んで興味を持たれた方は、是非参加してください。会場でお待ちしてます。

07/09/2009

『精神』、そして『精神病とモザイク』

『精神』
監督・想田和弘
現在、東京は渋谷のシアター・イメージフォーラムにて上映中。
その他全国30箇所近くでも。
公式ホームページ 

観察映画『精神』を観た。
モザイクをかけずに精神科の患者さんや診察風景を撮った映画がある、ということをテレビで見て、さらに最初「メンタル」というタイトルだったらしいこともどこかで見ていたので、いったいどんな画面が繰り広げられるかとあまり予備知識なしに行ってみた。

いくつかの、というより、いくつもの刺さる光景と言葉があった。
映像的には、もっと寄ってほしいところやピントがあってほしいところに、カメラが行かないもどかしさはあるのだが、映画全体の手ごたえはすごい。

感情にはいいも悪いもない。
そしてでも、そうして何か重たい感情を感じたとき、実はその感情そのものがつらいのではなく、人や自分によってそれを押さえつけられること、そのことが、私たちが生きる上で一番の苦しみであるという認識をまた新たにした。
モザイクなしで顔を出して、実名で映画に出ることを承諾した、10人にひとりくらいの稀有な人達の、想像を絶するこれまでの苦しみは、こうして心を開いていかなければ、受け止めることはできなかったかもしれない。

いまも毎週金曜の最終回は想田監督が質疑応答の時間を設けてくれているそうだ。
青山ブックセンターのトークショーが30分前に満席になって、申し込めなかったから、もう一度イメージフォーラムに行こうか。

そして。
『精神病とモザイク~タブーの世界にカメラを向ける』
想田和弘・著
中央法規・刊

この映画のメイキングでもあり、実際に取材先となった「こらーる岡山」のルポルタージュでもある。
メイキングとして読むと、私が『精神』の映像にイライラしたのは、仕方のないこととわかった。なにしろ、監督がたった一人でカメラを担いでそのたった1台のカメラで撮っていたから。
合間でカメラを担いだ監督と患者さんがそのままの体制で会話をしたり質問したりしあうところはあるが、多くの場面がとにかくただカメラを回す撮りきりであったという作りの方法やアイディアの裏側がわかる。またそれだけでなく映画を撮ろうとした狙いや効果も、あるいは編集時の迷いや期待も、赤裸々に書かれている。
そして「観察映画」という想田監督が切り開いたひとつのカテゴリーを理解するためには、最新にして最強のテキストでもある。この部分は、テレビを中心とした作り物世界に嫌気がさしているわたしなどにとっては、ある意味胸のつかえが降りる痛快さもある、おもしろい読み物だった。

さらにこの『精神病とモザイク』は、現代日本の精神病や精神病患者、精神科の診察の実態をつぶさに知らせるルポルタージュである。
映画は、これまでの映画のように、監督の意図に副って映像と音声を組み合わせて作られた部分が極力押さえられているから、どう感じるか、考えるかは、監督の意識の及ばない部分が大きい。
しかしこの本を読むと、この映画に登場した患者さんたち自身も、実際映画に出てみて、またそれを見てみて、どう感じたか、後悔したか、勇気を得たか、など、自分がその撮られていたとき考えていたことと全く違う感想を持ったということもわかる。つまり、時間の経過と共に、当たり前のことながら、心は、精神病であろうと、精神を病んでいない状態にあろうと、微妙に、あるいは大きく動いているのだ。

本来映画は出来上がった作品がすべてだから、メイキングの本は反則だと思う。でも、これは映画そのものの受け止め方が、あまりに広いものであるがゆえに、少なくとも撮影の開始から完成し、上映し、世界を回ってさまざまな意見をぶつけられた想田監督が書くものであるから、とても貴重であると思う。


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まだご覧になっていない方は、是非お早めに。ほんとうにお薦めします。

想田和弘監督のブログ


こらーる岡山の山本医師についてはまたいずれかの機会に書くかもしれませんが、今回はここまで。カット!

07/06/2009

ダイアローグ・イン・ザ・ダーク開催中

もう3年前になるが、青山の梅窓院で行われていたダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)を見に行った。
あれ?見えないから見には行かないか。
その時のブログはこちら

これまでずっと満席だった上に、このところ中休みだったが、7月4日から再開。
費用もかかり、アテンドするボランティアも大変なので、長期開催をしたいができない、というのが3年前の話。当時は確か、それでも2ヶ月以上はやっていたようだ。今回はそれを超えるロングラン。それでも、まだまだ、との思いが強いようだ。

暗闇にしばらくいると、目が慣れて、かすかに風景が見えたりする経験はあるが、このDIDは完全なる暗闇。そして、その中で耳や鼻、そして触覚を駆使して歩く。その道は視覚障害者の案内人に道案内される。

とにかく、できるだけ多くの人に体験をしてほしい。
そして、私のお友達なら、行った後に是非その体験を分かち合いたい。

ダイアローグ・イン・ザ・ダーク 公式ホームページ
空席照会、予約もここから。
http://www.dialoginthedark.com/

04/27/2009

ママ、生まれる前から大好きだよ!

胎内記憶、誕生記憶の研究の第一人者の池川先生が、新刊を出された。
ママ、生まれる前から大好きだよ!―胎内記憶といのちの不思議

昨年、杉並の和田中学校の「よのなか科NEXT」の授業の講師をお願いしたご縁で、1冊お送りいただいた。

この本も、これまでの先生の本と同様に、多くのミラクルと感動が満載されている。胎内記憶に興味がある人にはもちろんだが、そんなものは信じられない、ばかげている、と思う人でも、読む価値を十二分に感じる内容だ。親である自分と子のつながり、自分を生み育ててくれた親との関係について、まっさらな気持ちに立ち返って考えさせられるが、読後には何か温かいものがこみ上げてくるような、そんなエピソードが沢山たくさんつづられている。
何よりも驚きでありこころを打つのは、ここに書かれていることの多くが、本当にこの世を生きる2歳とか3歳の子供達が実際にその口から語った言葉である、ということ。発生学で学んだことを、それを知るはずもない子供が、見てきたように語る件は驚きを超える。
また、出産というと、「母と子」の問題として考えられがちだが、今回は父親の役割についても言及されている。出産の立ち会いや育児参加も昔とは比較にならないほど増えてはいるが、そうした生まれ出てからの物理的な助け以上に、夫婦間の信頼関係や胎児への語りかけなど、妊娠中の精神的な父親の支えが重要であることも、具体的な例を挙げて示されている。

終章は「いのちに寄りそう医療を求めて」。産科は、あかちゃんが生まれるというイメージで言えば、明るく楽しいところに感じるが、実際はやはり病院であるから、死とも隣り合わせの場であることは、他の科と何ら違ったことはない。だからこそ、池川先生は、医療者には豊かな死生観が必要だと語る。常に「いのち」と真摯に向き合う、だからこそ、お産にいいお産も悪いお産もない、すべてのいのちに畏敬を抱き、感謝を捧げる、と締めくくられている。

親と子の悲しい事件が数多く見聞きされる今、ひとりひとりが自分自身の生と死について考えることが、緩やかで穏やかな変化をもたらすのではないか。理屈やテクニックより、小さな事実の積み重ね。池川先生のお話は、いつもこうした思いを新たにしてくださる。

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ピンクは池川クリニックさんのはがき。かわいい。

12/07/2008

胎内記憶と教育はどちらも大事

胎内記憶とは、胎児が母胎にあるときの記憶。ある意味オカルティックにも聞こえるかもしれないが、実際にその声を調査し集め、研究し続けているお医者様がいらっしゃる。
池川クリニックの池川明先生だ。
収集され分析されたデータは、クリニックホームページの下のほうから、またさらにページを飛んだところに詳細にアップされている。

さて、そんな池川先生の研究は、以前から講演をお聞きしたり、ご著書でも読んでいたが、今回、中学生の授業でお話をされたところに同席して、直接お話を伺うことができた。
胎内記憶があるとかないとか、信じる信じないという話はこの際どうでもよい。今日書きたいのは、私が感銘を受けたこと。
ひとつは単に健康であるか病気であるか、障害がないかあるか、あるいは自然分娩であるか帝王切開であるか、などなどは、どちらが良くてどちらがいけない、ということではない、ということ。
例えば、ダウン症で喘息も持っている子どもは、そのことを悲観していず、むしろその病気を治すことが自分たち家族にとってとても大事で、楽しいことと感じている、といった話。
例えば、帝王切開でナイフが目の前に下りてきて恐かった、と言う子もいれば、「助けてくれてありがとう」という気持ちだったという子もいる、という話。
これらは、池川先生が子どもたちから直接聞いた話だ。子どもが2-3歳の時には、普通の意識の中に記憶として残っていたり、実際にそれを語ることもあるが、大きくなるにつれ忘れる子も多い。でも本当に今を生きている子どもたちがその口を通じて言ったことは、真実以外の何ものでもなく、本当に貴重な言葉だと感じる。
だからこそ、親は、帝王切開をしたから、”普通に”生めなかったんだ、とか、障害を持って生まれたことで自分のこれまでの生活のせいなのか、などと、自分を責める必要がない、ということも示唆してくれている。

もうひとつは、日本には3歳児神話、というのがあって、子どもは3歳まで親が働きに出たりせずに、母親がそばにいてあげるべきだ、というような解釈をされている向きがある。しかし池川先生のいう「3歳までが大事」は、胎内の1年と出生後2年の計3年である。また母親がそばにいるべきというような物理的な必要よりは、心が寄り添っているか、声をかけているか、父親も積極的に話をしているか、などが胎内から2歳になるまで重要なことだ、とおっしゃる。
母親の幸福感や自己への信頼感、子どもへの穏やかな語りかけなども必要だろう。

私は自分の妊娠出産期間にこんなことは知るよしもなかったから、非常に残念なのだが、それでも、子どもが2歳くらいのときに「おかあさんのおなかの中は、あーったかくて気持ちよかった」といったという話に、えらく安堵もしたし、逆に子どもへの感謝の気持ちも芽生えたりしたものだ。


そして。
胎内で幸せな時間を過ごしたとしてもそれだけではだめで、人は、その後の教育でまた成長する。
池川先生は、杉並区立の和田中学に招かれて、「よのなか科NEXT」の授業で、中学3年生約160名に向かって、代田校長と生徒たちとの直接の対話を通して、胎内記憶だけでなく、出産に伴うたくさんの問題提起をしてくださった。
しかし、中学生にとって、胎内の記憶や、出産や中絶、生や死に関する話は、年頃から言って恥ずかしい、と思うだろうし、ましてや普通なら授業などというオープンな空間で語られることは大の苦手なのでは、と思って授業に臨んだが、あにはからんや。
子どもたちはひとりひとり自分の頭で考えて、求められれば、反対意見が多くても、堂々と意見を述べたのだ。
最近、高校生や大学生を見るにつけ、正解ばかりを追い求めすぎて、自由な発想がないみたいだ、ということを感じていた。しかし、よのなか科に参加している生徒たちは、そんな心配は無駄とばかりに、どんどん課題を考え、まとめ、自分の意見を表明する。
これを教育の成果と言わず、なんと言うのだろう。
つまりは、鍛えないからその能力は伸びないのであって、自分の意見をいう、という当たり前で簡単なことをきちんと鍛えてあげれば、この世代の子たちはすぐそれができるようになるようだ。

子どもの成長には、胎内の記憶が大事だ。
そしてそれ以上に長い時間を費やすその後の教育も、欠くべからざる重要なファクターであることを、今回このひとつの参観から学んだ。
とにかく自分で考え、自分で判断する。そんなあたりまえのことをできる教育を、親も教育者も必死になってしなければいけないときに来ていると思う。

11/16/2008

心とからだに働きかけるボディワーク   ~あいなぎ

『あいなぎ』に参加してきました。

タイトルに書いたように、あいなぎは「心とからだに働きかけるボディワーク」である、と聞いて、行こうと思ったのです。
言葉から解きほぐすと、『ボディワーク』ですから、からだに働きかけることで、心も含む人の内面までも動かしてくれるもの、というと正しい解釈に近いように思います。

果たして。

方法はとても簡単で、2人1組になって、互いの手首を接点として、相手の動きに合わせて動く、ただそれだけ。
でも、そう聞いても、なんのことやら、でしょう。
はい、実際体験した私も、なぜこうなるのか、いまだに不思議な感覚でいます。
でも、見事にからだは動くし、伸びるし、曲がるし。そしてなぜか穏やかな爽快感が心のなかに響きます。
場の空気も張りつめているような、それでいて、緩やかに流れるような。
それぞれ人の気の流れが、相手がいることによって調整され、そのおかげでさらにそのお相手の微量なエネルギーを受け止められるようにしてくれているように思います。相手のエネルギーをまともに受けないからこそ、自分の中のエネルギーを刺激してくれる、というか。

最初はお師匠さまにご指導いただいて、その後、長年やっていらっしゃる先輩と。そして最後はその日初めて参加した私のような初心者同士で。いずれも楽しく、またなぜかその相手の方によって、こちらの感じ方も違って、それがなにより不思議。

あいなぎは、整体師の秦英雄師が10年の歳月をかけて生み出されたものだとのこと。一説には、推手なども取り入れたとの情報もありますが、いずれにしてもネット検索しても何も出ていないので、秘技であるのは確かでしょう。とにかく行って体験しないことには。

そして、なぜちょっと知っただけでそこに足を運んだのか、自分でもまた不思議。なにしろ、いろいろおすすめいただくものは数あれど、本当に行ってみたり体験したりするものは、そう多くなかったわたしなのだから。
ただ、これもなぜかわからないけれど、自分には妙に合っている気がして、当分通ってみるつもりです。

月に一度、新橋の「銀の鈴」さんでやっています。来月は12月11日(木曜)19時半~21時半、参加費4000円。男性女性、若い・歳いってる、関係なく、誰でも参加できますよ。