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胎内記憶と教育はどちらも大事

胎内記憶とは、胎児が母胎にあるときの記憶。ある意味オカルティックにも聞こえるかもしれないが、実際にその声を調査し集め、研究し続けているお医者様がいらっしゃる。
池川クリニックの池川明先生だ。
収集され分析されたデータは、クリニックホームページの下のほうから、またさらにページを飛んだところに詳細にアップされている。

さて、そんな池川先生の研究は、以前から講演をお聞きしたり、ご著書でも読んでいたが、今回、中学生の授業でお話をされたところに同席して、直接お話を伺うことができた。
胎内記憶があるとかないとか、信じる信じないという話はこの際どうでもよい。今日書きたいのは、私が感銘を受けたこと。
ひとつは単に健康であるか病気であるか、障害がないかあるか、あるいは自然分娩であるか帝王切開であるか、などなどは、どちらが良くてどちらがいけない、ということではない、ということ。
例えば、ダウン症で喘息も持っている子どもは、そのことを悲観していず、むしろその病気を治すことが自分たち家族にとってとても大事で、楽しいことと感じている、といった話。
例えば、帝王切開でナイフが目の前に下りてきて恐かった、と言う子もいれば、「助けてくれてありがとう」という気持ちだったという子もいる、という話。
これらは、池川先生が子どもたちから直接聞いた話だ。子どもが2-3歳の時には、普通の意識の中に記憶として残っていたり、実際にそれを語ることもあるが、大きくなるにつれ忘れる子も多い。でも本当に今を生きている子どもたちがその口を通じて言ったことは、真実以外の何ものでもなく、本当に貴重な言葉だと感じる。
だからこそ、親は、帝王切開をしたから、”普通に”生めなかったんだ、とか、障害を持って生まれたことで自分のこれまでの生活のせいなのか、などと、自分を責める必要がない、ということも示唆してくれている。

もうひとつは、日本には3歳児神話、というのがあって、子どもは3歳まで親が働きに出たりせずに、母親がそばにいてあげるべきだ、というような解釈をされている向きがある。しかし池川先生のいう「3歳までが大事」は、胎内の1年と出生後2年の計3年である。また母親がそばにいるべきというような物理的な必要よりは、心が寄り添っているか、声をかけているか、父親も積極的に話をしているか、などが胎内から2歳になるまで重要なことだ、とおっしゃる。
母親の幸福感や自己への信頼感、子どもへの穏やかな語りかけなども必要だろう。

私は自分の妊娠出産期間にこんなことは知るよしもなかったから、非常に残念なのだが、それでも、子どもが2歳くらいのときに「おかあさんのおなかの中は、あーったかくて気持ちよかった」といったという話に、えらく安堵もしたし、逆に子どもへの感謝の気持ちも芽生えたりしたものだ。


そして。
胎内で幸せな時間を過ごしたとしてもそれだけではだめで、人は、その後の教育でまた成長する。
池川先生は、杉並区立の和田中学に招かれて、「よのなか科NEXT」の授業で、中学3年生約160名に向かって、代田校長と生徒たちとの直接の対話を通して、胎内記憶だけでなく、出産に伴うたくさんの問題提起をしてくださった。
しかし、中学生にとって、胎内の記憶や、出産や中絶、生や死に関する話は、年頃から言って恥ずかしい、と思うだろうし、ましてや普通なら授業などというオープンな空間で語られることは大の苦手なのでは、と思って授業に臨んだが、あにはからんや。
子どもたちはひとりひとり自分の頭で考えて、求められれば、反対意見が多くても、堂々と意見を述べたのだ。
最近、高校生や大学生を見るにつけ、正解ばかりを追い求めすぎて、自由な発想がないみたいだ、ということを感じていた。しかし、よのなか科に参加している生徒たちは、そんな心配は無駄とばかりに、どんどん課題を考え、まとめ、自分の意見を表明する。
これを教育の成果と言わず、なんと言うのだろう。
つまりは、鍛えないからその能力は伸びないのであって、自分の意見をいう、という当たり前で簡単なことをきちんと鍛えてあげれば、この世代の子たちはすぐそれができるようになるようだ。

子どもの成長には、胎内の記憶が大事だ。
そしてそれ以上に長い時間を費やすその後の教育も、欠くべからざる重要なファクターであることを、今回このひとつの参観から学んだ。
とにかく自分で考え、自分で判断する。そんなあたりまえのことをできる教育を、親も教育者も必死になってしなければいけないときに来ていると思う。

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