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街が変わる

とある1日。

高野山が東京にイベントでカフェを開いた、とのことで、平日の昼に表参道へ。開店時間に合わせて12時の待ち合わせに15分前に到着すると、「今日の特別ランチは終了しました」の声と、50人ほどの行列。確かに以前から新聞やラジオでパブが流れていたし、目玉の「高野山精進ランチ」は20食限定だったからないことではない。今回は、高野山を東京の若い人たちにも知ってもらおうと、南海電鉄が企画したイベントで、期間も限定。できれば法話をお聞きしたいと思っていたのだが、法話は瞑想か写経と一緒になっていて単独では聞けず、整理券をもらう必要がある。さらにスペースが狭いためこちらも人数限定。で、聞くところによると前日の瞑想には、30分前から整理券が配られるのに、2時間前から行列が始まったとのこと。つまり2時間立って並んで、ようやく瞑想や写経をさせていただけたのだ。これなら長谷寺へ行って写経、あるいは武蔵御嶽神社へ行って瞑想もできちゃう時間。いずれにしても、それがかなわないとわかったところで、『フェイク』の曼荼羅がかかり、南海電鉄のパンフレット配布所と化した、会場であるカフェのHy'sさんは辞去した。(こちらのカフェはまた今度食事してみたい雰囲気でしたが。)
御嶽も神社までは急坂を頑張らないと上がれないし、自宅から近い長谷寺でさえ、なかなか階段はきついものだ。
祈りや願いを込めるには、強い思いが必要。安直に出張してもらったところで、という考えは甘かったと反省をしつつ。

同じ頃、先日開店した鎌倉・大町のジャルダン食堂もランチ開店前に10名並んでいたとか。席数14席のこじんまりしたお店が、開店と同時にほぼ満席で、3回転だったらしい。それでも、鎌倉は東京に比べ多少ののんびり感があって、入れないお客さんはまた後で来る、とか、日を改める、とか、混乱もないようだ。なにより、めちゃくちゃおいしい本格フレンチが昼、夜問わず、形式ばらずに楽しめるという店のコンセプトと気どらない雰囲気が、お客さんを和やかにしている気がする。また、『本物』は、一過性でない重みもあり、大事にしたいものだからなのだろう、と思う。
ジャルダン食堂ができて、恐らく鎌倉の大町という町も変わっていくのではないか。ジャルダンのほか、大好きなSugiyamadai-Works、クレープリー アルモリックなど、本格派のヨーロッパ志向の店ができる一方で、老舗の和菓子の大くに、パンの日進堂などの懐かしい風景も入り混じり、町がゆっくりとだが素敵な変化を遂げる予感がする。
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これは一例、真鯛のロースト。
ほかにも驚きのおいしいものたくさん。


そして夜は自分が約20名の行列の一部をなし「丸の内ナイトウォーク」(ちょっと異様?)。2002年に丸ビルができてというもの、こちらはまさしく瞬時に大変化をした丸の内を、三菱地所の方のガイドを聞きながら自分の足で歩く。昔仕事でよく行き来していたニッポン放送会館と博報堂さんがあった東京ビル、現在のTOKIAは、大きな様変わりに感慨も。そこを皮切りに最近オープンした新丸ビルまでの行程。
丸の内仲通りは、広葉樹を落葉樹に換え、アスファルトを石畳に換え、人が憩えるベンチを設置するなど、季節感と温かみを持たせる工夫がされている。まだところどころにある工事現場の防護壁には、生のグリーンが使われているのも驚きだ、てっきりフェイクだと思ったのに。温暖化対策の屋上緑化も期待大。
普段何気なく通り過ぎていた街を、こうして注意深く歩くと、時代も大きく変わったことを知る。都会の街づくりは、もはや単に機能性と利便性を追求したものではなく、環境にも人にも快適性をもたらすことを求められ、それにより明らかにそこを歩く人にも変化をもたらすようだ。
もちろん、鎌倉に住んで、好きなときに自然に触れたりおいしい食材を手に入れることができる幸せとはまだまだ大きなへだたりもあるけれど、都会に住み働いていても、そのなかでも緑に目を休めたり、落葉に季節の移ろいを知ったり、夜景に杯を重ねたり、といったことが安らぎを与えてくれる時代になったようだ。
文科省の建て替えで、一緒に丸の内に移った文化庁で、先日亡くなった河合前長官が、丸の内に来て職員の顔が元気になった、とおっしゃっていた、という話は、それをそうと知らせてくれるエピソードでもある。
ここでも、形だけのエコ、無理に飾られた造花のような作り物ではない、『本物』が、ほんとに疲れた都会人を癒してほしいな、と思った3時間の夜のお散歩だった。


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ここはロンドン、でも丸の内もちょっとこんなイメージに。

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日記

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今日から、新しい仕事が始まった。地元のカフェの、早朝アルバイトである。そこは恐らく関東でも随一のおいしいコーヒー屋さんで(わたしにコーヒーの味を語る舌はないので、実は単に当たり障りのない形容詞にとどめただけ)、そこのオーナーもお客さんもとても摩訶不思議で素敵なひとたちなので、一度カウンターの中からお店を見てみたいと思ったからである。出勤の6時55分、朝7時から開店するその店の周りに、人はいない。でも看板がオープンを知らせると、なぜかそこにだけ人が集まってくるから不思議だ。3時間の皿洗いバイトは、お客さんとして店内にいるより緊張しないのはなぜだろう。どうも試用期間は大過なくすぎたようで、次回のシフトも入れてもらって帰宅。

そして今日は8月の間休止していた七里のフリーマーケット。もちろん、その初給料はほとんど使い果たす。いつものジーンズ屋さんと、スタイリストのお姉さんの店で。

ランチは、かねてから楽しみにしていた、フランス食堂が突如オープンしたので、開店と同時に入店。それはそれはおいしかったです ! コーヒー屋さんの隣にできたので、プレオープン情報が手に入りラッキー。きっとここもいろんなブロガーさんやレビュアーさんが賛辞を贈って、あっという間に入れなくなることだろう。そして、この時点で今日のわたしは既に赤字である。

再来週からはもうひとつの仕事(これもアルバイト・・・)が始まる。そちらに行きます、とおっしゃってくださるかたが多いが、できればそちらではなく、今日から始めたほうのコーヒー屋さんにしていただけますか?私の新しい一面(ってなに??)を知っていただけるかもしれません。

ああ、アルバイトが本業になりそうな、今日この頃。大丈夫か?!

※写真はパリのマレ!コーヒー屋さんも食堂も、わたしにとってはこんな気分です。

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住む街を離れて

夏は涼しいところがいい。この夏は猛暑で本当に毎日たくさんの汗をかいたので、カラダの中身がなくなっちゃうかも、と、ちょっとインプットに、涼しい美術館巡りをいろいろと。(今日は個人的な記録です)

アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶 国立近代美術館
多分新宿であった展覧会以来15-6年ぶりにブレッソンの作品にたくさん、直接出会えた機会。自分の目で見た、その瞬間を切り取った写真は、いつみてもすごい。私はキャパよりカルティエ=ブレッソン。

トプカプ宮殿の至宝展 東京都美術館
「オスマン帝国」って、いつどこにあったの?と聞くほどの歴史オンチの私が、この展覧会に入っていくなんて。西洋史学専攻だった友人のヨーコちゃんの誘いあってこそ。広く深い世界の歴史の交点の記録は、今まで思ってもみなかった感動の2時間をもたらしてくれた。こういう歴史ものの展覧会も、好き嫌い言わず行ってみるものだと反省。

歌川広重《名所江戸百景》のすべて 東京芸術大学大学美術館
知っている地名が次々現れて、懐かしい(わけはないのだが)風景ばかりが並ぶ部屋。「相州七里濱」がある北斎の富嶽三十六景も雄大で好きだけど、広重は狭い都会の江戸を、粋に洒落た色彩で再現していて、東京っ子の気持ちを大きく揺さぶる。これはどっちが好きか、と言われても。

時空を超えて日本も世界もどこにでもテレポーテーションの気分。

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Luxuryとはなにか

ひとそれぞれ、ラグジュアリー、贅沢を感じるものや体験があるだろう。
今の私にとって、ラグジュアリーとは、若かりし頃に買ったMandolinとIrish Harpに触ることである。マンドリンは、私のためのオリジナル製作で、中に「京香様の為に勤製す」と、製作者の石川先生自筆の墨書きが貼ってある。アイリッシュハープはもともとそう安い買い物ではないが、バブリーなOL時代に勢いで買った代物だ。さらについ先ごろまではこの2つとも押し入れの奥深く追いやられ、持ち主本人の私でもそれを毎日奏でていた日々があったどころか、持っていることさえ忘れていたようなものたちである。

ラグジュアリー消費に対しては、人種やグループによって異なったイメージや考え方が存在しているそうなのだが、たとえばフィレンツェのオールドリッチは、お城に住み、さまざまな先祖由来の財産に囲まれていても、それを贅沢とは感じていない、というインタビュー結果がある。(うらやましい話だ・・)
ニューヨークや東京の富裕層へのインタビューでは、花瓶、陶器、バスタブやアンティークの櫛・笄など、さまざまなものが提示されていたが、ここから導き出される「ラグジュアリー」「贅沢」という感覚は、「ディスタンス」、つまりそのものと消費者が何らかの距離を感じることから生じる、ということだそうだ。

この私のラグジュアリー品である楽器たちは、実はそれを手にしたときは必要に迫られて購入しただけで、さらに当時は弾くことが生活と一体化していたので、距離などがなかった。つまり当時の私にはそれはまったく贅沢なものではなかった、ということである(イタリアのオールドリッチと同じ?!)。しかし今、そんな楽器たちに触れる時間もなくなり、あえて取り出して眺めないとそれを弾くところまでいたらない生活になって初めて、これらは私にとってかけがえのない、素敵なラグジュアリー消費として戻って来た。それを考えると、このディスタンス理論は非常に納得がいくものだ。

技術が革新され、消費が拡大している時代は、顕示的な消費としてモノを手に入れることそのものがラグジュアリーの大きな要素であったかもしれないが、今は、心の豊かさを満たす時間で非日常を感じたり、今では手に入らないような希少性が思い出や自分のアイデンティティを強化してくれたり、と贅沢の意味が変わってきているのかもしれない。それで考えると、戦前は「贅沢は敵だ」という標語もあったが、この忙し過ぎる現代は、敵とか無駄という考えよりも、多少なりとも贅沢といえるモノやトキを持てるほど幸せなことはないのではないか、とふと思ったりもする。

あなたにとってのラグジュアリーなモノとは?


【広告】そういえば、インタビュー映像で、ラグジュアリーにマッサージを挙げた方もいた。短い時間で異空間に入っていける自分を癒すためのマッサージは、贅沢気分だけでなく、実質的に心にもカラダにもよいのだから、当然だ。夏の疲れを癒すラグジュアリープランは、ご相談に応じてご提供しています !
http://www.aromawiz.net


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この風景を毎日見られるだけで単純にラグジュアリーを感じられるかも。

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